神山充雅氏(株)愛媛CATV 取締役会長
愛媛CATVは1989年(平成元年)8月の設立から今年で30年、平成の時代を生き抜いてきたケーブル局だ。設立のための準備室立ち上げから今日まで、強いリーダーシップで同社を率いてきた神山氏をインタビューした。
地域ぐるみの共同体としてケーブルテレビ事業をスタート
愛媛CATVを立ち上げたきっかけについて教えてください。
神山:私は愛媛新聞の経営企画室にいたのですが、日々の仕事を通してどうも文字だけでは情報が全部伝わらないもどかしさを感じていたのです。そして昭和の終わりころになると、人々の関心が段々とテレビ、映像の方に移っていっていることも実感していました。ただ、メディアのことは新聞に限らず研究しており、経営分析などもしていたことから、当時からケーブルテレビ事業はやるべきだと思っていました。そのようなことから、事業計画を作って提案したところ、愛媛新聞社内で都市型CATVをつくろうという機運が盛り上がり、私はCATV準備室長になったのです。
その後、新聞社の社長や放送局の社長、それから県知事などが中心となって「ケーブルテレビを地域のためにつくろう」となったわけですが、当時、松山ではこのビジネスに8社くらいが名乗り出ていました。
8社も名乗りを挙げたというと、調整がとても難しかったでしょうね。
神山:色々と政治的な動きもしていただきましたが、最終的には名乗りを挙げたみんなでこの事業に取り組もうじゃないかということになったのです。これは全国にも例がない、地域の企業8社による、まさに共同体の事業として誕生したんです。
愛媛新聞が中核となってやっていこうとなったわけですが、県や市のバックアップはもちろんのこと、みんながとても協力的で気持ちよく手伝ってくれました。ですから、当社は文字通り“地域ぐるみ”の会社なんです。
私はその当時から、ケーブルテレビの将来を考えるにあたって、電力とNTTには絶対に株主と役員になってもらおうと思っていました。NTTは当社に出資して役員に就任するだけでなく、通信の技術者を常勤で出向させてくれました。このように、当社は会社設立時から通信事業も視野に入れていたわけです。今も総売り上げのうちの約6割近くは通信事業なんですよ。
このように、当社の経営戦略は、昔も今も、競合会社と戦いをするのではなく組むこと。とにかく徹底的に組む。それが、これからのケーブルテレビが生き延びるための秘訣だと思っています。
地域ぐるみの会社とはいえ、軌道に乗るまではご苦労が多かったのでは?
神山:やはり一番つらかったのはお金です。1989年に会社ができて、91年10月に開局、もちろん一期からずっと設備投資も続け、エリアも毎年拡大していきました。ところが最初はお客さんがゼロですからね、資本金以上に累積損失が多くなるということで、いわば債務超過の状態になっていったわけです。
当社は資本金8億円ですから、監査報告の義務があるわけです。98年の第9期の監査報告書に「会社の財産および損益の状況を正しく示していないものと認める」と書かれたんです。会計監査の結果、正しくないと指摘されたということで、県や市が出資し、設立時は知事も市長も取締役だった会社であり、マスコミ系である当社に対して、当然のように批判する勢力も出てくるわけです。当時、私は専務であり事業の提案者の一人として痛切に責任を感じました。
ケーブルテレビ事業の特色ともいえますが、最初の設備投資が大きく、加入者がまだ少ない時期には大赤字が数年続くわけですから、お金の問題は死ぬほどつらかったですね。