河村浩 氏 イッツ・コミュニケーションズ(株)

成長を続けるには 過去の成功体験を忘れること

2019年6月号掲載

河村 浩氏 イッツ・コミュニケーションズ(株) 取締役相談役

東京・神奈川の東急線沿線をサービスエリアとするイッツ・コミュニケーションズ(株)(東京・世田谷区、嶋田創社長、以下イッツコム)。現在、総接続世帯数・加入世帯数ともに全国上位のケーブルテレビ事業者である。設立は1983年(昭和58年)3月、翌84年2月に有線テレビジョン放送施設設置許可を取得し、87年10月に開局した。多チャンネルサービスを実現し、その後も、他社に先駆けてインターネット、プライマリー電話を開始。近年はIoTを活用したインテリジェントホームや、電気・ガスとライフサポートサービスを充実させ、今年3月末にはサービスエリア全域のFTTH化も完了した。今年で設立から36年、絶えず変化と進化を続け、その企業イメージはいつも新鮮だ。その歴史や理念を、創業時から携わる同社取締役相談役の河村浩氏に聞いた。

自ら手を挙げて「CATV開発プロジェクト」へ
多様な社会の実現に多チャンネルは絶対必要
日本で2番目の都市型ケーブルテレビとして1987年に開局しました(*)が、創業時のいきさつや河村さんの関わりをお聞かせください。

河村:東急グループは創業以来、鉄道事業を軸に、沿線に街を作り、上質な生活環境を提供することをめざしていました。多摩田園都市開発ではガス事業や電力事業を模索していましたし、情報通信事業もその一環です。73年(昭和48年)には、多摩ニュータウンで行われたCCIS実験(集合住宅の館内放送)に、東急も参画しました。そのような流れから、82年12月に東急電鉄の社員3人による「CATV開発プロジェクトチーム」が発足したんです。
私自身は71年に(株)東急エージェンシーに入社しましたが、広告業よりも地域開発や街づくりに興味があり、東急電鉄のケーブル事業への進出を興味津々で見ていました。81年~83年につくば万博の協会に出向し、帰ってきた頃にちょうど「CATV開発プロジェクトチーム」が立ち上がっていたので、自ら手を挙げて参加しました。
(*)設立時は東急有線テレビ(株)、86年9月に(株)東急ケーブルテレビジョン、 2001年8月にイッツ・コミュニケーションズ(株)に社名変更

特に、ケーブルテレビ事業のどんなところに興味を持ったのでしょう。

河村:当時、アメリカでは「オープンスカイポリシー」という政策で、衛星を使った多チャンネル事業が開花していて、「CNN」を生み出したテッド・ターナーが注目されるなど、新しいメディアの動きに興味がありました。多チャンネルは、さまざまな人々の興味や価値観に応えるメディアであり、これから多様な社会を実現するうえで、絶対必要になると感じていました。私が参画した83年の7月には、それまでのプロジェクトチームから「ケーブルテレビジョン開発室」となり、メンバーも10数名になっていました。東急電鉄メンバーが中心で、東急エージェンシ―からは私1人、36歳の頃でしたから、青春を賭けたのではなく、中年を賭けたんです(笑)。ちなみに、かつてイッツコムの社長を務めた渡辺功さんや市来利之さんも、このプロジェクトのメンバーです。

87年に開局時には、まだ通信衛星(CS)が打ち上がっていませんね。

河村:ただ、89年に打ち上がることが決まっていましたから。「今は苦しいが、CSが打ち上がれば何とかなる」。根拠はないけれど(笑)、将来に対する楽観的な気分はありました。ただ、加入セールスの核に多チャンネルを据えていましたので、最低でも30チャンネルは放送しなきゃいけないと、強引に揃えました(笑)。地上波はNHKや民放キー局のほか、群馬、埼玉、千葉、神奈川の独立U局。NHKのBS放送、それから「CNN」はNTTの回線でヘッドエンド(HE)まで引き込みました。日経が文字放送で流していた経済情報の合間に、テープによる経済番組を挟み込み、土日は中央競馬の中継を回線で持ってきて、平日は経済・土日は競馬と、今考えると無茶な(笑)東急オリジナルのチャンネルも作っていました。また、東北新社も将来のCS配信を見越して、テープ配信を始めていたので、加入者がほとんどいないのにも関わらず、映画専門や海外ドラマ専門チャンネルを供給してもらいました。この頃はチャンネルサプライヤーさんにも、一緒に頑張っていこうという雰囲気がありました。