荻野:ケンカが強くなりたくて、ボクシングを始めました(笑)。強かったですよ。高校時代から20歳過ぎまで続けました。高田馬場のボクシングジムに通っていて、アマチュアの大会でランキング上位も見えてきた頃、目に大怪我をしてしまったのです。あの怪我がなければ、ずっと続けていたでしょうね。手は7回も手術しました。ボクシングを辞めてからは、家業を継ぐ傍ら、何か夢中になるものが欲しくて、オートバイや自動車のレースに出たりしていたのですが、親友だったバイク仲間が突然の事故で亡くなってしまい、バイクも辞めてしまいました。意欲を喪失していた頃、母親に所沢JCへの入所をすすめられました。私がふらふらしていたので、何を仕出かすか分からないと心配したのでしょう(笑)。30代の頃です。JCでは多くの仲間と出会いました。多くの著名人を輩出しているのですが、元総理大臣の麻生太郎さんもJC出身です。入所してすぐ、私は麻生さんの秘書を務めたのですが、これもいい経験になりました。いまだに麻生さんは、会えば私のことを「喜美雄ちゃん」と呼びます(笑)。
荻野:入間市は丘陵地帯が多いのです。そのため、当時は山陰やビル陰の難視聴世帯が1万5,000~6,000もあって、11の共聴組合が各地域に共同アンテナを立てて、地上波の再送信を行なっていました。ならば、そのアンテナをケーブルテレビに交換してもらえばよい。入間市の約5万5,000世帯(当時)に対して、1万超もの共聴組合がありますから、世帯を一軒ずつ回るより、組合長に話を通した方が早い。そう考えて、各共聴組合と交渉を始めました。最初は難航しましたが、1カ所合意が得られると、堰を切ったように次々と契約が決まり、一気に加入世帯を増やすことができました。開局初年度250名だった利用者が、2年目に1,872名、3年目に6,148名と急増して、神風が吹いたかのような勢いで社内が活気づきました。
荻野:「とにかく1人でも多く、地域の皆さんの顔を映してこい」と号令をかけました。小学校の校庭にカメラを設置したこともあります。子供たちがカメラのレンズを覗き込む様子を、編集せずにそのままコミチャンで放送して、ご家族に大好評でした。車にカメラを積んで、ひたすら街中をぐるぐる回って市民を撮影したこともあります。さらに入間市の協力を得て議会にカメラを設置したり、市長インタビューを行なったり、行政情報の発信にも積極的に取り組んで、徐々に、“地域のテレビ局”として認知されるようになりました。地道な努力を続けて、開局6年目を迎える頃に単年度黒字化し、開業10年目から株主に何とか配当できるところまでこぎつけました。