荻野喜美雄 氏 入間ケーブルテレビ(株)


高校時代、荻野氏はボクシングにのめり込んでいった。しかし目に大怪我を負って競技を続けることを断念。その後、親友が亡くなるという不幸にも見舞われ、しばらくは失意の日々を過ごしていた。やがて母のすすめで入所したJCで、さまざまなメンバーと交流したことを機に、新ビジネスへの意欲を高めていくことになる。
荻野:ケンカが強くなりたくて、ボクシングを始めました(笑)。強かったですよ。高校時代から20歳過ぎまで続けました。高田馬場のボクシングジムに通っていて、アマチュアの大会でランキング上位も見えてきた頃、目に大怪我をしてしまったのです。あの怪我がなければ、ずっと続けていたでしょうね。手は7回も手術しました。ボクシングを辞めてからは、家業を継ぐ傍ら、何か夢中になるものが欲しくて、オートバイや自動車のレースに出たりしていたのですが、親友だったバイク仲間が突然の事故で亡くなってしまい、バイクも辞めてしまいました。意欲を喪失していた頃、母親に所沢JCへの入所をすすめられました。私がふらふらしていたので、何を仕出かすか分からないと心配したのでしょう(笑)。30代の頃です。JCでは多くの仲間と出会いました。多くの著名人を輩出しているのですが、元総理大臣の麻生太郎さんもJC出身です。入所してすぐ、私は麻生さんの秘書を務めたのですが、これもいい経験になりました。いまだに麻生さんは、会えば私のことを「喜美雄ちゃん」と呼びます(笑)。
会社設立から2年が経過した88年、入間ケーブルテレビは高倉の地にトレーラー式の事務所を建てて、社員1人を採用して始動した。電気も通っていない仮事務所で半年を過ごし、89年7月に鉄筋2階建ての新局舎が竣工。90年4月の開局に向けて、パート2名を含む10名体制となった。多くの社員が、営業や取材、配線工事まで兼任した。営業に関しては、荻野氏にあるアイデアがあった。
荻野:入間市は丘陵地帯が多いのです。そのため、当時は山陰やビル陰の難視聴世帯が1万5,000~6,000もあって、11の共聴組合が各地域に共同アンテナを立てて、地上波の再送信を行なっていました。ならば、そのアンテナをケーブルテレビに交換してもらえばよい。入間市の約5万5,000世帯(当時)に対して、1万超もの共聴組合がありますから、世帯を一軒ずつ回るより、組合長に話を通した方が早い。そう考えて、各共聴組合と交渉を始めました。最初は難航しましたが、1カ所合意が得られると、堰を切ったように次々と契約が決まり、一気に加入世帯を増やすことができました。開局初年度250名だった利用者が、2年目に1,872名、3年目に6,148名と急増して、神風が吹いたかのような勢いで社内が活気づきました。
スローガンは、「地域とともに、市民とともに」。開局時から、ケーブルテレビの認知向上のため、コミュニティチャンネルの放送に注力した。取材班は、市民の姿を撮影しようと市内を走り回った。
荻野:「とにかく1人でも多く、地域の皆さんの顔を映してこい」と号令をかけました。小学校の校庭にカメラを設置したこともあります。子供たちがカメラのレンズを覗き込む様子を、編集せずにそのままコミチャンで放送して、ご家族に大好評でした。車にカメラを積んで、ひたすら街中をぐるぐる回って市民を撮影したこともあります。さらに入間市の協力を得て議会にカメラを設置したり、市長インタビューを行なったり、行政情報の発信にも積極的に取り組んで、徐々に、“地域のテレビ局”として認知されるようになりました。地道な努力を続けて、開局6年目を迎える頃に単年度黒字化し、開業10年目から株主に何とか配当できるところまでこぎつけました。