大橋弘明氏(株)ハートネットワーク 代表取締役社長
次なる目標を探していた時にケーブルテレビ事業にめぐり会った
大橋さんがケーブルテレビに携わることになったきっかけを聞かせてください。
大橋:私が父の会社の工場で工場長をしていた20代後半の頃に、隣の西条市に1万坪の土地を購入し、10億円をかけて工場を移転させたんです。その大仕事が終わり、次に何をしようかと思っていたときに、「日本ケーブルテレビコンサルタント(以下NCC)」からケーブルテレビという新しいビジネスの話を聞かされたのです。NCCというのは、伊藤忠商事が1984年1月に甲府のケーブルテレビ局の日本ネットワークサービスや電通とともに設立したコンサルタント会社で、当時は広く営業をかけていました。
この話を聞いて私は日本の商社の動きや、ケーブルテレビについての情報を収集し、勉強しました。そしてアメリカのケーブルテレビのデータや現状などを教えてもらううち、これは、事業として十分成立するなと思ったわけです。
すぐに会社設立に向けて動き出したと?
大橋:当時、郵政省(現・総務省)からは1行政区域1社という区切りがありましたから、与えられたフィールドが小さければ、小資本で出来るのでやろうと思えば誰でもできると思っていました。ところが、当時郵政省は「認可を与えるということは権益」だから、だれにでも許可できるものではないというわけです。ですから、当然のように地元の大手企業や、地域に対して影響力のある人、そして地元の資本家といった人たちがケーブルテレビ事業の立ち上げに名乗りをあげていたんです。たまたま私が個人でやろうとしていることを聞きつけた彼らが、市と商工会議所を巻き込んで「一本化調整」に動き出したわけです。彼らはそれぞれ企業のバックヤードが違うということで、1987年の秋に、地元名士のジュニアたちがメインメンバーとなり、市役所と商工会議所がオブザーバーに入って、実行委員会を立ち上げました。そこで、一番若くて、ケーブルテレビについて勉強していた私が委員長となり、資金集めに奔走することになったわけです。
実は私が資金を全額出してこの事業を始めようと思っていたので、“社長をやります”と手を挙げたら皆さんに許してもらえなくて(笑)。周囲から「やはり社長は地元の有力者にお願いした方がいい」と言われ、商工会議所の会頭や県の役員の方々に頼んでまわったんです。70歳近い重鎮ばかりでしたが、事業立ち上げに40~50億円かかると知ると、「こういう新しい事業は若い人がやった方がいい」と皆さんがおっしゃる(笑)。
ちょうどバブル前の大不況の頃で、中小企業は皆お金がなかった。資金集めには苦戦しました。新居浜は住友グループ発祥の地ですから、住友グループにお願いしたんです。でも住友さんも厳しい時期で、グループ10社で1,000万円しか集まらなかった。資本金1億8,000万円を目標にしていたので、結局、父に保証人になってもらって借金をして、足りない分を私が払って個人筆頭株主になりました。こうして、担保と資金を用意した、当時まだ34歳だった私が社長になったわけです。
当時の新居浜のテレビ受信環境はいかがでしたか。
大橋:昔は民放2波しか映らず最悪だったのですが、1986年に当時の郵政省が「民放TV全国四波化方針」を打ち出して、日本テレビ、テレビ朝日、東京放送、フジテレビのUHF局が新設されました。愛媛も1990年代に入ってTBS系列局とテレビ朝日系列局ができた。これができなければ、当社は区域外再送信でバンバン稼いでいたかもしれませんね(笑)。
では、加入獲得営業は相当困難だったのでは?
大橋:事業を開始する前は、「営業なんて必要ない。ケーブルさえ引けば、加入者が自然に増える」と思っていた。それがフタを開けてみれば、全然どころかケーブルテレビのケの字も誰も知らない。1軒のお宅に訪問営業に行った社員が半日戻って来ないので、どうしたのか聞くと「理解してもらうのに、3~4時間かかってしまいました」と言う時代でしたから。当時は今と違ってカギをかけていない家も多かったですから、戸別訪問すると話は聞いていただけたんです。営業部隊は、学校を出たての新人に任せました。新入社員が訪問すると、皆さん喜んでくれて「若いのに頑張ってるねぇ」と言って歓待してもらって、食事をご馳走になったり、いただき物をして帰ってくる社員が多かったですよ(笑)。これって、“家庭に入り込む”というケーブルテレビの原点ですよね。