岡本光正氏(一社)衛星放送協会 専務理事
激務のテープ供給、紆余曲折のCS創成期を乗り越えた強い思い
東北新社は多チャンネルビジネスの先駆者です。創成期から関わられた岡本さんならではのエピソード等を教えていただけますか。
岡本:私が東北新社に入社して、はじめに担当したのは配給で、最初の3年間は地上波ローカル局、その後は民放キー局の日本テレビとテレビ朝日を担当し、洋画や海外ドラマを販売していました。4~5年経った頃、「ニューメディア・ブーム」が起こり、アメリカのケーブルテレビが話題になり、東北新社も大手広告代理店等と一緒に勉強会をやっていました。すでに、電通さんは宮古島のケーブルテレビ(宮古テレビ(株))に番組を販売されていまして、そこに映画を提供したのが、ケーブルテレビとの最初のお付き合いになります。その後、電通は、「JCN(Japan Cable Net)」というケーブル向け番組供給の事業を立ち上げて、毎月番組を提供するケーブルテレビのネットワークが構築されました。そこへの番組供給を通じて、よりケーブルテレビとの接点が生まれました。1984年(昭和59年)頃のことです。
そして1985年には、ハリウッドのメジャースタジオや大手メディア企業がこぞって、日本の多チャンネル市場への進出を検討し始めました。東北新社はハリウッドとのパイプが強いことから、創業者(現・最高顧問)の植村伴次郎のリーダーシップのもと、UIPグループと組んで、映画会社、広告代理店等の参画を得て、1986年3月に日本初の専門チャンネル「スターチャンネル」((株)スター・チャンネル)を立ち上げました。
1986年設立ということは、通信衛星(CS)が打ち上がる前ですね。
岡本:その時点で、3年後の1989年(平成元年)には通信衛星が打ち上がりケーブル向け番組配信が始まることが決まっていました。当時のトラポン代は年間5億~6億円でしたから、それまでに1世帯でも多くの加入者を確保しておこうと考え、いち早く「スターチャンネル」を立ち上げ、まずはテープによるチャンネル供給を開始したのです。
当時、日本でペイテレビサービスができるシステムを持っていたのは、長野の(株)上田ケーブルビジョンと茨城県つくば市の(一財)研究学園都市コミュニティケーブルサービス(ACCS)の2局だけ。真っ先に導入を決めてくれたのは上田ケーブルビジョンの母袋恭二社長で、86年7月1日がサービス開始日に決まりました。ですが、その後、導入交渉が難航し、契約が成立したのは6月20日、サービス開始の10日前です。もうその後は徹夜作業で、自分で運転してなんとかテープ納品を間に合わせました。今思い出しても、危なっかしい(笑)事業でしたね。
それから3年間、テープ供給事業を行い、最終的には月30本、ケーブルテレビ30局に導入いただきました。その頃のスタッフ数は2~3人ですから、毎月1,000本近いVHSテープのやりとりは驚異的ですね(笑)。ケーブル営業から編集・納品までこの人数でこなしていたので、出張や営業に出ている以外はほとんど会社にいました。会社のソファーで仮眠して、朝、清掃業者の方によく起こされたものです(笑)。
そして、1989年(平成元年)、待望のCS 打ち上げを迎えるわけですね。
岡本:テープ供給から解放され(笑)、89年9月から宇宙通信(株)のスーパーバードA号で番組配信を開始するのですが、その約1年後の90年、クリスマスの時期に同衛星に事故が起こってしまった。そこで、スーパーバードA号を利用していた我々を含む8チャンネルはJCSAT1号と2号に分かれて乗ることになった。年末での移行作業だったので、本当に大変でした。しかも、当時のJCSAT衛星は沖縄をカバーしていなかったので、沖繩ケーブルネットワーク(株)、石垣ケーブルテレビ(株)、宮古テレビ(株)の3局には再びテープ供給することになったのです。そして92年4月、復帰したスーパーバードに戻りました。
その後は、受託・委託放送事業の制度ができ、CSアナログ放送を経て、96年からCSデジタル放送になり、現在に至るわけですが、振り返ると、CS創成期は商社間の競争の時代でした。[三菱グループの宇宙通信=スーパーバード=スカイポート] 対 [伊藤忠商事グループの日本通信衛星=JCSAT=CSバーン]という構図があり、通信衛星は2つ、スクランブルも2種類、プラットフォームも2社。ケーブルテレビ局にも、CSアナログ放送の個人視聴者にも、ご不便をかける結果となってしまいました。その後、デジタルの波により、衛星会社もプラットフォームも統合されてひとつになりました。先駆的に事業開始した我々としては、そんな紆余曲折に翻弄されたと感じる部分もありますが、一方で、この競争がマーケット拡大の原動力になるとも思っていました。ただ、どんな状況であれ「これまでにない新しいサービスを生み出し、育てていく」という強い思いがあったから、続けてこられたんだと思います。