森 紀元氏(株)シー・ティー・ワイ 取締役名誉会長
2021年3月20日逝去されました。心よりご冥福をお祈りします。
大批判を浴びた電波障害対策が“四方みな得”の「四日市方式」へ
CTY(当時の名称はケーブルテレビジョン四日市(株))は三重県初の都市型ケーブルテレビとして誕生しましたが、森さんの関わりを教えてください。
森:私は四日市生まれの四日市育ち、地元の信用金庫で社会人をスタートしましたが、バブル期の融資姿勢に疑問を感じ、勤続30年を目前に退職しました。ケーブルテレビについては、信用金庫時代に理事長から、1983年(昭和58年)に開局した愛知県半田市の(株)CAC(当時の名称シーエーティーブイ愛知(株))の話を聞いたのが最初です。
その数年後、全国各地でケーブルテレビを立ち上げる動きが起こり、四日市でも有志によるグループができ、私も参画することになりました。当時48歳です。そして、88年に会社を設立、常務取締役という名刺を持って、総務省の総合通信局(当時の名称は電気通信監理局、通称「電監(でんかん)」)に通い始めることに。とはいえ、ケーブルテレビについて何も知らなかったから、電監の課長補佐から「あんた、なんにも知らんね。全国でケーブルテレビの計画があるけれど、あんたのところが一番心配だ」と言われました(笑)。でも、その課長補佐と話しているうちに、ケーブルテレビが地域社会に必要不可欠だということがわかってきた。“四日市っ子”の私としては、地域に必要だと理解できると、だんだん力が入ってくる。そして翌89年6月には有テレ施設設置認可を得て、約半年間の準備を経て開局しました。
開局直後から、バブル期に乱立した中高層ビルの影響で、電波障害が社会問題となり、CTYが大きく関係しましたね。
森:当時、ビルの影響で「テレビが映らなくなった」と訴える市民が多かったのですが、市は「電波障害は民民の話」と言って取り合わない。そこで、私は「中高層ビルの建設を許可したのは行政でしょう。それで電波障害が起きているのに、民民の話だと言って突っぱねるのはおかしいじゃないか」と。まぁ、素人だから言えたんですが(笑)、喧々諤々やりました。そのうち、行政も理解しはじめ、四日市都市整備公社が設立され、電波障害対策に乗り出すことになった。ただ、電波障害対策用の共聴施設の整備代は、原因者であるビルの所有者が支払うのが通例でしたが、CTYが請け負う場合、都市整備公社が計算して受信者が月額300円支払うことになった。これが大問題になり、「共聴施設なら受信者の負担はゼロなのに、CTYに依頼すると毎月300円なんて、納得いかない」と袋叩き(笑)。受信者の会合にも出席しましたが、夜12時頃まで怒号が飛び交うこともありました。でも、数日経つと「CTYにお願いしたい」となる。それはなぜか。共聴施設の管理の問題で「故障した時に誰が修理するのか」という話に行き着くと、「300円でCTYがやってくれるなら、安いもんじゃないか」となるわけです。
ところが、会合での話し合いを終えて「300円で依頼を受けてきた」と報告すると、社内から猛反対に遇いました。300円という金額は都市整備公社の決定なので、変えられない。その金額で応じるかどうかが我々の判断で、私は応じることに決めたのですが、社内からは「収支が合いません。何を考えてるんですか!常務」と叱られました。さらに、電波障害対策を月300円で応じたことが記事になると、今度は業界から総スカン。「森さん、ケーブルテレビのこと知らん知らんとおっしゃるけど、知らないにもほどがある」と言われました(笑)。当時、ケーブルテレビにおける電波障害対策は、原因者から整備代として1戸16万円、加入者には負担がないことになっていました。ですので、加入者から月300円というのは全くの常識はずれだったわけです。さらに、もうひとつ批判されたのは、「CTYは都市型ケーブルテレビなのに、なんで電波障害対策をやるのか」というものでした。当時、都市型ケーブルテレビは先進的で、難視聴型ケーブルテレビは古いと思われていましたので、そういう声も多かったのです。
今でこそ笑い話ですが、この時期に一生分の大批判を浴びました(笑)。それでも、私はできるだけ多くの世帯と「つながる」ことが大切だと思っていました。それに、地域の人たちからCTYという存在を認めてもらい、信用・信頼が得られたことも事実です。
この電波障害対策は、原因者も受信者も市も、そして我々CTYも、みんなが少しずつ良くなる結果となりました。私はこのことを大岡越前の「三方一両損」をもじって、「四方みな得」と呼んでいます。成果が出るまでは批判の嵐にさらされましたが、最終的には「四日市方式」と呼ばれ、大学や官公庁、ケーブル業界からも講演依頼をいただくようになりました。