佐藤浩市氏(株)テレビ松本ケーブルビジョン 代表取締役社長
「テレ松の佐藤さん」といえばケーブル業界で知らない人はいないだろう。情に厚く、強いリーダーシップを発揮しながら、常に地域社会へ貢献することを念頭にビジネス展開をしてきた佐藤浩市氏にインタビューした。
政治家になるための足掛かりのはずが・・・
佐藤さんは政治家を目指していらっしゃったそうですが、どうしてケーブル事業に携わるようになったのですか?
佐藤:私は早稲田大学に入学すると「雄弁会」に入部したのですが、この「雄弁会」は竹下登、海部俊樹、小渕恵三、森喜朗といった歴代の総理大臣を次々と輩出しました。ひょっとしたら私も総理大臣になれるんじゃないかと錯覚するくらいでしたよ(笑)。
ちょうど大学の卒業前に、長野県の知事選挙があるということで、地元ということもあり長野へ応援に行ったんです。その時、知事に当選したのが西沢権一郎さんでした。その後大学を卒業した私は、浅草の深谷隆司先生(後に郵政大臣、自治大臣、通産大臣など歴任)のところで、住み込みで書生としてお世話になり、徒手空拳で政治家を志す深谷先生から政治のイロハと演説を教えていただきました。
また、2人の総理大臣、田中角栄先生、小渕恵三先生からは特に目をかけていただきました。
田中先生には地方遊説では何回もお供をさせていただき、色々なことを教えていただきました。田中先生は顔を合わせる度に「おい佐藤君どうだ」と声をかけてくれ、人心をつかむ術は見事というほかありませんでした。「葬式を大事にしろ」と知人、友人が亡くなったら当日でなくても必ず行けと言われました。小渕先生には弟のように大変かわいがっていただき、ケーブルテレビの認可のことから私の母のことまで物心両面で気にかけていただき家族ぐるみでお世話になりました。
私は27歳のときに県議選に出ようと思っていたのですが出られず、次の県議選を待とうということになったわけです。とはいえ、何もしないわけにはいかない。飯を食っていくために仕事をしなければということで、選挙応援に行って縁ができていた西沢長野県知事に相談したところ、松本の若手経営者たちが、有線テレビというのを考えているらしいということを聞かされたのです。
その後、松本市長、商工会議所会頭など、経済界のビッグスターが集まり、テレビ松本有線放送株式会社が設立され、当時29歳だった私が松本市の発起人代表になるんです。普通ならあり得ない話ですが、西沢知事が「佐藤君の至らない点は俺が全部責任を持つので、面倒みてやってくれ」ということで、発起人代表から即社長になったわけです。
結局、僕は1回も選挙には出馬せず、48年の間ケーブルテレビ一筋にやってきました。いま77歳ですから、設立からずっと社長をやっているのは記録だと思います。ただ、こうした経緯で社長になりましたので、何かベンチャーのような夢があったというようなことではないんです。たまたま自分の就職をどうするかということで、飯を食っていくためにひとつやってみようかと(笑)。地元の人達も西沢知事がそう言うのならということで、そのときに5,000万の金を集めて、50人の均等株主で始まったのが、この会社のきっかけです。
今でこそケーブルテレビは多くの人に認知されていますが、設立当時はかなり大変だったことと思いますが。
佐藤:その頃は、長野県内で見ることができるテレビ局は1局しかありませんでした。“有線テレビ放送”という時代でしたから、その後、こんなに大きな業界になっていくとは、誰も思っていなかった。
設立当初は机が3脚と自転車3台と親子電話1台で事務所を開き、3人でスタートしたのです。
会社設立後、一番最初にやって来たのが松本税務署で、「テレビ会社をやるという話だけれど財産はこれだけ?あんた何か隠してないのか」と言われるほど、何もなくて、その後、加入世帯が1万件にいくまでの間は、3人で毎日自転車で戸別訪問をしました。
すると、今でも忘れられないが、「あんたはまだ30歳の若い青年で前途があるんだから、そんないい加減な、詐欺みたいなことをするのは止めなさい」とか、「テレビは1局しか映らないんだから、東京の何局が見えるなんてウソを言っちゃダメだ!まともな仕事をやりなさい」などと言われ、誰からも信じてもらえませんでした。地元の人々から怒られたり、説得されたりしながらも、このような戸別訪問を8年間やり続けました。